傍若無人

ネット記事を読んでいると「傍若無人」という言葉が目に留まった。

あ~ うちにもいるな~

なんて思いながら読んでいた。

母親と二人で出かけて一緒に帰ってきたにもかかわらず、玄関の扉を開けて自分が入ったら勢いよく扉を閉める。

冬のある寒い日に茶の間で母親と二人で過ごしていたいたはずなのに、自分が出かける時にはスト-ブを消して出かける。

てな感じです(笑)

おわかりになったとは思いますが私の父親です。

子供の頃から私は父親の事は嫌いでした。

今でも好きではありません。

父親は「電気をつけたら消しなさい!」「家に入ったら玄関の鍵はかけなさい!」

等々、私達子供に注意、いや怒っていたが自分は何一つできていなかった。

二世帯で同居してからは、二階の私達が22時頃にシャワ-を使うと「うるさくて寝られない」と言ってきたらしい。

しかし父は、夜中にトイレに起きては、扉を勢いよく閉めるものだから二階に居る私達は目が覚めてしまう。

こんな父親にこれ以上面倒をみてもらいたくない!と思った私は高校を卒業したら就職をして家を出る!そう決めて家を出た。

しかし、23歳で結婚をして長男・長女が産まれて数年した時に同居する事になった。

妻には結婚前に、いずれは両親と同居をする事の承諾をもらっていたのだが当の私は同居するのは嫌だった。

しかし長男である私は使命感のようなものがあった。

同居して27年、こんな傍若無人の父親と生活すると腹の立つ事が数多くありました。

時には大喧嘩になり娘が仲裁に入った事もあります。

自分が言っている事が一番正しい、人の意見を聞かない人なんです。

今年85歳になるの父親。

数年前に自動車免許の返納を優しくお願いした。

すると

「じゃあタクシ-代くれ!おれは病院にも行かなくてはならない。お金がかかる!」

と言ってきた。

私は唖然とした。

田舎町だが一応、公共の交通機関を利用して通院をする事が可能だ。

父は自動車免許を取得した年齢が遅かった事もあるのか運転に不安があった。

そこにきて高齢になってきたものだから尚更だった。

現に、オートシャッタ-の扉が開き切る前に車を動かして3.4回シャッタ-を破損させている。

この事を追求すると

「あれはシャッタ-の調子が悪くて、開いたシャッタ-が誤動作で下がって来たんだ!」

という。

ブレ-キとアクセルを踏み間違えて という事故が高齢者で多いと話すと。

「あれは時々しか運転しないから起こる事。いつも運転している自分は大丈夫」

な~んて言う始末。

単独事故で済めば良いが、人を巻き込んだ事故を起こしたら大変だからさと、もう私の怒りはMAX状態ではあったが堪えて言うと

「俺が入っている保険は何があっても全て補償してくれる、誰にも迷惑はかからない!!」

この言葉を聞いて私は堪忍袋の緒が切れた!!

「何言ってるんだ!!もし被害にあった人が亡くなったらそれでは済まないんだよ。お金だけの問題ではない!人の命だぞ!同居している人間にだって迷惑がかかる!!俺だけならまだしも、妻にも子供達にも!!」

私は外に聞こえているのではないかというくらいの声で怒鳴ったらしい。

二階で蒼ざめた顔で立っていた妻にそう言われた。

この後、何度も説得をした。

皆が心配している。病院へは私が連れていくから大丈夫。

こう言って今年の7月に車をやっと処分した。

私が怒鳴り散らした後は月に一度程運転するくらいのようだったが心配だった。

自分で思っていた以上にストレスを感じていたようで、父が車を処分した日からは言葉では言い表せない爽快な気分だった。

この事に比べれば仕事のストレスなんて・・・(笑)

こんな事もありながらですが、歳月と共に私も成長してきた?のか沸点に変化がでてきました。

と言うより考え方に変化してきました。

父親の人間性は変わる事はないので、病院に連れていく車中の会話は腹の立つ事が多い。

以前の私なら怒っていたのでしょうが、今は黙って聞いて「そうなんだ」と相槌のみ。

私は車を手放してくれた事を感謝?

それと今でも好きではないが私の父親だからな~と思っているからです。

ただ言える事は「傍若無人」は良くないですね・・・。

重なったイベント

厄年はとうに終わっているのに色々な事が今日まであった。

2月に入り、ある会社から誘いの話しがあった。

今年で58歳になる私は今更転職なんて考えてもいなかったが

定年無、70歳まででも働いて欲しいという言葉を頂いて転職を決意。

4月から転職をする事になり準備をしていると、娘から連絡があった。

一昨年結婚をしたのだが、旦那が4月1日付で東京に転勤する事になったという。

娘の旦那は全国転勤がある職業だったので覚悟はしていたが、いざ転勤が決まると寂しさがあった。

娘も正社員で仕事をしていたので、引き継ぎをして8月末まで勤務。

9月に転居する事になった。

この二つの事が2月に起きた。

翌月中旬に同居している母親の調子が悪くなった。

息苦しいというのだ。

このご時世、調子が悪くても直ぐに病院へいく事はできない。

電話で母親の状態を説明した。

熱も高くなくコロナの症状ではないようなので、来院するようにと看護師から指示がでた。

早速連れていくと、医師から即入院と告げられた。

病名は「特発性間質性肺炎」という事で、正常値の血中酸素濃度は「96~99%」だという事だが母親は

「89%」だった。

難病という事。

特定医療費(指定難病)受給者証、特定疾患医療受給者証の認定(交付)申請手続きを行った。

入院時医師からは

「完治はないです。まずはこの治療(治療方法の書いた用紙をもらった)をやってみますが、効果があるかはわからない。まずは最低3ヶ月は入院生活になると思って下さい。退院できたとしても酸素ボンベが必要になる可能性もあります。」

という言葉だった。

この言葉を聞いて長い入院生活になるだろうと覚悟するしかなかった。

入院中は面会をする事ができない為、洗濯物等は病院の受付等を介して受渡をしていた。

洗濯は妻にやってもらった いや やって頂いた(笑)

この母親が入院して4日程経った18時過ぎに担当医師から私の携帯に電話が入った。

何事かと思い電話にでると

「看護師から連絡があったのですが、今日お孫さん(私の息子)が病院へお菓子を持っていらしたらしいのです。
受付に言った名前は私の孫ですから、そのお菓子を渡して下さいとお母さんが言うのですけれど、今回の投薬は血糖値が上昇するので病院食以外は口にできないのです。ですから次回お母さんのお荷物の引き取りに来られた時にお持ち帰り下さい。お母さんにはご説明しましたので。」

というものだった。

確かに入院時の説明で私は聞いていた。

まさか息子がお菓子を差し入れるとは思ってもみなかったので治療についての詳しい説明はしていなかった。

担当医師からの電話を切った私は、一人 笑っていた。

良いところあるな息子よ。

翌日、母親と携帯電話で話しをする事だできたので息子が持って行ったお菓子の事を言うと

「そうなんだわ~ 孫がせっかく持ってきてくれたから渡して欲しいとお願いしたんだ。食べないで置いていおくだけだからとお願いしたんだけど駄目だった。

と言うのだ。

ここでも私は笑ってしまった。

「帰って来るまでとっておくから、先生と看護師さんのいう事きいて早く良くなってくれ!」

そう言って電話を切った。

母親は幸い1ヶ月半程で退院してきた。

朝御飯に何を食べたかを思い出せない事があるのに、孫からのお菓子の事はしっかり覚えていた。

病状が良くなったのは孫(息子)のおかげかも知れない。

その後、母親の退院一週間も経たないうちに義母が入院をした。

病名は脳梗塞だった。

幸い症状は軽かったのだが入院は必要だった。

この入院だが、何の因果か私の母親が入院した病院へ入れ替わりのように入ったのだ。

こんな事がありながら私は4月から新しい職場。

適当?いい加減?臨機応変?なのかわからないが、それなりに仕事をしております。

この歳での転職は私にとって人生最大のイベントだと思っていたのですが違いましたね~(笑)

二人とも無事退院しましたから言える事ですが

私から余計な力みを取り去って仕事をさせてくれたのかも知れません。

こんな感じで月日は流れ娘が転居する9月1日がやってきました。

空港へ妻と見送りに。

友達は数名見送りに来てくれていました。

妻は涙もろい。

娘も私も覚悟していた。

家族写真・友達と一緒にに写真を撮ったりしていると出発時間30分前。

「そじゃあ行くね~」

と娘が手を振り検査場へ歩き出した。

友達も皆

「じゃあね~」

と手を振っている。

妻は・・・

「涙に声を詰まらせながら手を振っている」

妻には何度も自分たちに言い聞かせるように言ってきた

「旦那は全国転勤があるのだからいずれは北海道からいなくなる。それは仕方がない事。旦那には娘を大事にしてくれと俺は頼んだ。どこに行っても大事にしてくれるから大丈夫だ」

まあ実際は自分に言い聞かせて寂しさを紛らわせているだけ?かも知れませんが。

娘が保安検査場へと消えて行った後、妻と二人で展望デッキへ行き娘が乗った飛行機を両手を振りながら見送った。

娘には見えるはずもないのに・・・。